無駄とは何か?:自分を無駄にしないために

 「人生に無駄なことなどない」

別段珍しい言葉ではない。成功者の格言として、綺麗ごととして、しばしば耳にする言葉だ。僕は別に世にいう「成功者」ではないが、しかしこれは単なる綺麗ごとでもないと思っているし、自分を支えている言葉でもある。今回は、このことについて書いてみたい。

そもそも無駄ってなんだろうか。意味のないこと?なら意味ってなんだ?逆に言えばどうなったら無駄じゃない、意味があったと言えるのだろうか?その一般的な回答の一つは「お金になるかどうか」だろう。この意味で言うなら、先の言葉にもう一言付け足さねばなるまい。

無駄にしないためには、証明し需要に応えなければならない

僕は本業は研究者、趣味として音楽活動を行っている人間だ。研究で稼げているとは現状言えないし、准教授になるまでは人様を養うには足りないが、まあそれで身一つ食えているだけ及第点だろう。当然ながら、ただ自分の好きな研究をしていても実入りはない。業績を積み、他者に分かりやすくそれを説明し、自らの研究の価値を示し、政府や財団からの研究支援を受けなければ、僕はこうして研究を続けられていない。もとより学び、人に自分の考えを伝える僕にとってそれは容易ではないができないことではなかった。酒の席で先輩方の戦略を聞き、世の情勢・財団の求める研究方針を分析し、世界や財団がどのような研究を求めているのかが分かれば自ずとどう進むべきかは見えてきた。学び書くこと、ただの趣味にもなり得るこの営為を「研究」という本業にまでこぎつけられたのは需要に応えようとしてきたからだ。もっとも僕はまだその途上にいるが。

これは他の仕事でも基本的には変わらないだろう。ただ能力を持っているだけではお金にはならない。その能力を証明する実績や資格が要るし、それが雇用主やクライアントの求めるものに合致しなければ対価は発生しない。世間的に求められるニーズを知りそれに応える力がなければいけないということだ。

需要を見つけ、道を切り開くこと

しかし「需要に応える」というのは言葉以上に難しく、苦しいことだ。僕は学生時代から吹奏楽部、軽音楽部、弦楽合奏部、大学のセッションサークル、自分のバンド、配信、ボカロPなど、ジャンルや活動形態を変えながらも既に人生の半分以上を音楽に費やしてきた。それくらい音楽が好きだし、自分自身のアイデンティティにもなっているのだから、当然「音楽で食っていきたい」と思ったこともあった。
だが大学生時代に東京というバンド激戦区での活動を経て、僕は痛いほど突き付けられた。「ああ、俺の音楽は流行りに合致しない」と。バンド活動を通して知り合った、自分の尊敬するバンドすら売れていなかった。「この人たちが売れない世界じゃ俺も無理だしやりたくない」そう思った。僕もずっと音楽をやってきた人間、音楽理論を中学生から学んできた人間だから音楽の分析はお手のもの、再現するのも造作のないことだ。「流行る音楽」を本気で作ろうと思ったら、実際評価されるかは別としてその系統のものは作れるだろう。でも作りたくなかった。ためしに作ってみても「自分の曲」と思えなくて反故にした。僕の好きな音楽はあまりに世間からズレていたし、といってそれを無理やり矯正するには、僕は音楽が好きすぎた。感傷的な二十過ぎの僕は、割り切る器用さも持ち合わせていなかった。だから音楽を仕事にするのは諦めた。仕事にしない方が自分の好きな音楽をできると思った。
今の研究の道に進もうと思ったのは、自分の指導教員との出会いがきっかけだった。彼の授業は面白く、学生誰もが尊敬する知性とユーモア、そして真に偉大な人物特有の優しさ。そんな魅力的な師に憧れるのは必至だった。そんな彼が、なぜか僕を、僕の学問の素質を非常に評価してくれた。「この道に来ないか」と誘われた。ちょうど音楽で評価されず、承認欲求のやり場を失っていた僕には、きっと彼の予想以上にその誘いが深く心に響いたらしい。それからはや7年、今も僕は彼の下で学んでいる。彼は足りないところは指摘しながらも、いつも僕の研究を、僕の能力を評価し励ましてきてくれた。「恩師」という言葉では足りないほど、僕は彼からたくさんのものを頂いてきた。これは僕にとって非常に幸運な出会いだった。努力こそすれ、無理に自分を変えずとも、ありのままの自分を、その能力を認め引き出してくれる存在に出会えば人生はこうも開けてくる。音楽では無力感ばかり感じていた僕が、研究では時に苦悩するも、そんな時は先生の言葉が僕を支え、僕は自信を持ってこの道を歩んできた。
しかし、彼の後をついていくだけでは研究に新規性も独創性もなく、そんな研究に需要はない。そこで、僕が捨てきれなかった「音楽」が再び頭によぎった。僕は師が充分に掘り下げきれなかった「タイの少数民族音楽」を軸に今自分の研究をしている。現地の民族楽器も習得し、現地の若者からは「俺だってそんな弾けないのに」と言われるくらいにはなった。文字すら持たず、口承で伝わる現地の音楽に譜面などない。しかし、色んな楽器の経験、バンド時代の耳コピ経験、作曲能力を持つ僕にとってそれらを再現し記録することは難しくなかった。
加えて現地では今音楽文化振興が、彼らの地位向上のために一役買っていること、タイ政府もその支援に関心を持っていることを事前調査で知っていた僕は、「少数民族音楽の伝承の研究」のテーマでタイ政府から許可を得て今客員研究員としてタイに住んでいる。元々流行りもののポップスより、フォークや民族音楽の方が好きだった僕の感性と能力は、今や否定されないどころかそれで飯を食えているという訳だ。ここに来てようやくこれまでの音楽活動が「無駄」じゃなくなった。
長々と自分語りしてしまったが、ここには二つの転機がある。一つは自分の師に、つまり自分も尊敬し、また自分のことを認め伸ばしてくれる存在に出会ったこと。もう一つはそこに自分の個性・能力を応用したことだ。僕は自分に合致した需要を見つけ、そこで道を開いてきた。自分を無理に変えずとも、それを求める先を見つければいい、それが自分の道となるのだ。

無駄にされない/ならないために

話は変わるが、就職した友人や恋人は就職先で能力を認められず、ひたすら馬車馬のごとくこき使われて無力感と疲労から精神を病んでしまうことがあった。僕からすれば彼らは皆魅力的で、能力もある人間なのに。彼らの愚痴を聞くたびに呆れるのは上司や先輩の酷さだ。部下や後輩を育てるのが彼らの役割というのが僕の認識なのだが――本来当然だが今やそれは相当レアなようなので皮肉を込めてこう言わせてもらおう――、あろうことか部下や後輩を否定するばかりで何も教えずただ仕事を投げて追い詰めるだけの輩。そんな愚か者の下にいたら病んで当然。病まない方がよっぽど異常だ。
これはちょっと酷すぎるにしても、あからさまな否定などなくても「自分ここに居ていいのか」と疎外感や無力感を覚えているならば、それはその環境が合っていないせいだ。僕もバンド時代に似たような感覚を度々抱いていたから分かる。あからさまな否定的な評価こそなかったが、評価の不在それ自体がつらかった。誰も何も言ってくれない。無関心ほど人を孤独にするものはない。
その場の需要に合致していない時、人は疎外感や無力感から孤独を感じ、ついには自分の否定に至る。「自分は才能がない」「自分はダメだ」「自分のやっていることなんて無駄だ」と。でもそれは違う。先にも言ったように無駄にしないためには需要に応じなければならないが、別にそのために自分を殺す必要はない。場所や分野を変えるだけで、需要は変わってくるからだ。「無駄」は需要に依拠したものだ。つまり、ある人自身やその能力だけをとって「無駄」ということはあり得ない。ただそれらが「無駄にされてしまう」環境にいるだけで。
勿論環境を変えるというのは楽な決断ではない。人間は、いや生物はある環境に適応したら基本的にそこに留まろうという習性を持つ。これは生存確率を上げる上では有効な戦略・本能だ。現代社会において、人間は最低限「生存」は保証されているが、しかし人間は、生きる意味を考えてしまう人間だから、「心」は容易に死んでしまう。それは鬱などの精神疾患として表れてくる。つまり、生物としての適応戦略がこの現代社会のメカニズムでは機能せず、かえって人を苦しめるエラーを引き起こしている。ならば自らアップデートするしかない。「変化を恐れるな」と。
だから「無駄」を感じるなら、それは既にエラーが発生している状態だ。エラーが起こらない場所を探すことだ。変化を恐れていつまでも苦しみ続けること、限りある人生の中でそれこそ本当に「無駄」な時間ではないか。

「生きる」ことに無駄はない

さらに言えば、「金」を目的としないならそもそもそんな重圧に耐える必要はない。「金」もこの現代社会というシステムで生きる「手段」であって、「生きる」ことそのものではない。金を稼いで、手段を確保して、その上であなたは何がしたいだろうか?僕自身は、突き詰めて言えば自分の家族友人恋人、自分の大切な存在と過ごし、自分の音楽を作り奏で楽しめれば、それでいい。だから、音楽を研究に活かせてなかったとしても、需要に応えられなくても、それは本質的にはどうでもいいことだ。だって音楽が手段じゃなくて「目的」なのだから、僕の音楽は絶対に「無駄」にはならない。
あなたが好きだと思うこと、楽しいこと、やりたいこと。それを何かの手段にしてしまう必要はない。もちろん好きなことでお金になるならそれも素敵なことだが、先述したようにそれはかなり難しく辛いことでもある。完全に「好き」を貫き通せなくなるからだ。
たかが手段たる「金」のためにおびえて自分を殺すこともない。それはとんだ本末転倒というものだ。無駄を感じてしまう、生きがいを感じられない、そんな時「自分の存在が無駄」なんて決して思うことない。逆だ。そうあなたに思わせている人々や環境こそ、あなたという存在にとって不必要な、「無駄」な環境なのだ。

主役に無駄はない

人が自分らしく生きる、ということは案外難しい。なぜかというと周囲の人や環境に「合わせよう」とするから。自分を曲げようとするから、自分らしくいられなくなる。そうすると「無理して作った自分が求められているなら、自分本体は要らないじゃないか」と自分の存在自体が無駄に、居ても居なくても変わらないモブキャラに思えてくる。
でも逆に考えてみよう。じゃあ誰が主役なのかと。それは誰の物語なのかと。「人生の主役は自分」これも良く聞く言葉だが、無自覚に自分を脇役にしてしまっている人は多い。主役だとしても自ら悲劇を演じたいのならば、それもあなたの自由だが、ハッピーエンドを望むなら時に冒険も必要だ。もちろん一切周りに合わせず「自己中心的」になってはヒーローどころかヴィランになってしまうが、あくまで自分の物語の中で、自分にできる範囲で合わせればいい。脇役たちに気を使いながらも「自分本位」であっていい。
外部に基準を求めるから、自分を脇役、何かの手段にしてしまうから自分の行動、ひいては自分の存在自体を「無駄」に感じてしまう。だけど、それがあなたの物語だとしたら、あなたの望みこそが目的。

そう、そこに無駄なものなどありはしない。

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